WALK

いにしえの建築をめぐる旅

【名古屋市】日本初の女優の居宅。二葉館(旧川上貞奴邸)見学雑記

愛知県名古屋市東区にある「文化のみち二葉館」(旧川上貞奴邸)に行ってきました。

 名古屋市の「文化のみち」というのは名古屋城から徳川園にかけての一帯のことで、江戸時代は武家屋敷が、そして明治から大正にかけては陶磁器の絵付業やガラス工業の中心地となり、豊田佐吉含め起業家たちの屋敷街となっていた地区のことです。

 現在は閑静な高級住宅街で、何棟かマンションも建っているけど、そのマンションも武家屋敷のような門や塀で囲まれてたりして歴史を感じます。

 他にも古い木造教会や、尾張徳川家菩提寺ヴォーリズ建築、戦前に建てられた学校、邸宅が点在していて、名古屋市はこのエリアでこういった貴重な建築物の保存・活用をすすめています。

 その「文化のみち」エリアの中にある二葉館ですが、この家は「日本の女優第一号」として知られる川上貞奴(1871~1946)が木曽川流域で水力発電開発事業を進める福沢桃介(1868~1938)と暮らした大正9年(1920年)築の邸宅です。

          福沢桃介さん(左)川上貞奴さん(右) 

 この家は二人の単なる別荘ではなく、木曽川における水力発電所開発事業を推進していた桃介氏にとって(なんと大正の15年間で7か所も水力発電所をつくった)その仕事の拠点であり、各界の要人を招待するための迎賓館的な役割があったようです。

 電力開発という公共事業、まして東京からきた桃介氏は、とにかくたくさんの人と会って、仲良くなって、協力してもらう必要がありました。

 そこでどうしても家を切り盛りできて、一緒に来賓対応できる人が必要だったようです。

 貞奴さんは本名を小山貞といい、12歳で座敷にあがり、16歳から芸妓として伊藤博文西園寺公望といった政財界の大物から贔屓にされていた人気芸妓だったので政界とのつながりはもちろん、来客対応もお手のものでした。 

 彼女は夫、川上音二郎氏の死後、しばらく女優を続けていたけど、1918年に女優を引退。名古屋市北区上飯田に川上絹布株式会社を興したり、俳優の後進育成を努める一方、発電事業開発にいそしむ福沢桃介氏を手伝った、ということのようです。

 ちなみに二人の出会いは14歳だった貞少女が野犬に襲われていたところ、通りがかった慶應ボーイの桃介青年が彼女を助けたことによるらしい。いろいろ読んでみたけど、貞奴さんの初恋の相手だったみたいな感じで書かれてましたね。 

 余談だけど、レズリー・ダウナー著の「マダム貞奴-世界に舞った芸者」によると実業家の藤田伝三郎、政治家の井上馨、内海忠勝、の3人が貞奴さんを「とらない」と伊藤博文公と誓約した証文があるようです。

 彼女がとても人気のあった芸妓だったということだと思うけど、しかし、45歳くらいのおじさん達が一体何をやってるんでしょうね。溝口健二監督の「祇園囃子」の世界みたい。 

 

 ちなみに桃介氏は東京に奥さんがいたため、当時の名古屋新聞にはこの二葉邸について「4000坪の妾宅」なんて記事に書かれています。

 でもいろいろ読んでいると二人は一般的な男と妾の関係というよりは、それぞれ事業を行いながら必要な時は協力しあうパートナー、といった感じだったようです。

 二人は1920年から約5年ほどここに暮らして、桃介氏の事業がひと段落すると、それぞれ東京に帰っています。

 で、その旧川上邸ですが....

 この静かな住宅街で目を引くのが、印象的な凸凹ある変化に富んだ外観。

外壁仕上げの凝りようですよね。

車寄せ箇所には石張りの丸柱、外壁仕上げもシングル張りやドイツ壁、石張り等、変化に富んでます。

 屋根もユニークでした。

 西側2階中央部分は、なんだか武士の兜みたいで側面が反った屋根になっている。創建当初のモノクロ写真をみてもこの通りでしたので、忠実に復元されているようです。

 車寄せ部分は日本家屋的な入母屋屋根の一方、正面2階の切妻屋根は、西側に向かって2階から1階まで反ったかたちで流れている。勾配も部位によって違うし、いろいろこだわりのみられる建物です。  

 このお家で印象的なのは、入ってすぐのステンドグラスのある大広間。

 しょっちゅう行われたであろう宴会やら晩餐やらの人の来客をきっとここで応対したんでしょうね。

 ただ、この大広間箇所は、昭和12年頃、敷地の一部売却にあたって解体されています。そのため、創建当時の写真や、しばらくこの家に住んでいた貞奴さんのご親族からの聞き取り、この家を建てたハウスメーカー「あめりか屋」の他の家を参考に平成16年に復元されました。

「文化のみちエリア」の他の建物でも散見されるステンドグラス。

大正時代に国産が始まったようだけど、もちろん当時は高級品。

二葉館内にもいくつかステンドグラスがあって、創建当時のものをクリーニングしたものから、当時の写真から新しく推定復元したものまで様々。

大広間のこの印象的なステンドグラスは一部が新規推定復元で中央部分等は当初のものとのこと。

この家の間取りは大きく分けると三つの時期に分けられます。

 

創建当初(現在の場所から数分先の東二葉町にあった)

昭和12年に売却され、二葉荘としての利用(洋館部分解体)

平成16年、現在の場所に移築復元。

 

 平成のはじめくらいから、旧所有者と名古屋市の間で話し合いは行われていたらしい。老朽化で解体の話もでていたが、話し合いの結果、現在の場所へ「可能な限り当初の状態」を目標に移築復元された。

ちなみに創建当初部分は1階展示室と2階の和室部分ということです。

展示室は国の文化財に登録されています。

上記の写真を見ると、人が写ってないのでさぞかし空いてそうですが、タイミングをはかって他のお客さんが移動した瞬間にスマホで撮影しました。

日曜日の午前中に訪問したけれど、それなりのお客さんが訪れていて皆さん写真撮影をしていましたね。

この「文化のみち」一帯にあるその他の旧宅(撞木館や旧豊田佐助邸)も休日は人で賑わってました。

昔のこのエリアの地図などもあり、この地域の昔の様子をいろいろ知ることができたので良かったです。