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ここは、かつて宿場町として賑わった見附宿(みつけしゅく)があった場所。
旧見附学校はほぼ東海道沿いに位置しており、すぐ近くには本陣跡地が二つあります。
本陣が二つあるって珍しいような。
この日は快晴だったため、青い空を背景に、学校の漆喰の白壁がとても映えました。

現存する日本最古の木造擬洋風建築
明治 8年(1875年):落成。開校式を挙げる
大正11年(1922年):小学校舎としての役割を終える。練武場(柔道場)として開館。
大正14年(1925年):高等裁縫女学院として開校
昭和14年(1939年):教員養成所として使用開始
昭和20年(1945年):陸軍病院の分院として使用開始
昭和21年(1946年):磐田病院として開院
昭和28年(1953年):郷土館として開館
その後、何度か改修工事を経て現在「旧見附学校」として国指定史跡となっています。
やはり150年近く建っていると、様々な用途で使用されていますね。
擬洋風建築(明治初期に日本の伝統技術を身ににつけた大工たちが西洋の建築を見よう見まねで建てた建築)としては日本最古ということです。
工事を請け負ったのは伊藤平右衛門という方で、代々、尾張藩の宮大工を務めていた家系の9代目の方。
館内のプロフィールを見ると、東本願寺の大門や尾張藩邸建築の監督も務めたようで、ベテラン宮大工といった感じ。
70年も現役の建物として使用されてきたことを考えると、とても頑丈に建てられているんだろうなと思います。
充実した展示
旧見附学校は5階建の建物で1、2階は当時の学校に関する資料や授業風景などの展示、3階は民俗資料館、4階は展望室、5階は太鼓楼といって昔、時刻を知らせるための太鼓を鳴らした小さなスペースで現在は展望スペースになっています。


1、2階の展示はいちいち「へえ~」と思わせてくれる、充実した見学スペースでした。
例えば
- 学校ができるまでの過程とその紹介
- 日本各地に残る明治時代の擬洋風建築の学校の紹介
- 開校当時の状況
- 当時の授業風景や卒業旅行の集合写真
- 明治から戦前の年代ごとの教科書
- 当時の時間割、校則の一部、卒業証書など
特に明治7年の開校時、児童数は男子179名、女子116名とあったけれど、思っていたよりずっと多いな、と思いました。この校舎に収容できたんだろうか?
当時、子供たちは親の仕事(農業や家事)の手伝いで、作物の収穫時期には数日休んだりしていたことや、それでも静岡県の就学率が明治7年の時点ですでに44%あり全国平均(28%)よりだいぶ高かったことなど、いちいち「へえ」となりました。
3階のは民俗資料の展示スペースになっていいます。
おそろしく古そうな炭火アイロンとか家具とか農具がズラズラと並べてある。
特に印象に残るのは農具。


窓鍬、三本鍬、畔切り、ソコマワシ、竹せん等、どんな用途に使用していたのか、僕の知らない農具がたくさん展示されている。
あらゆる作業を人の手で行っていたわけだから、そりゃ各作業に応じた農具がありますよね。
この手の民俗資料館的なものって全国各市町の博物館にもあると思うけれど、資料が豊富だったし、如何せん築150年の木造建築(何度も増改築、修復してるだろうけれど)の趣もあって満足のいく見学となった。


4階、5階は展望スペースで磐田の市街地が見渡せる。
古い建物だと2階以上は見学不可のところもある中、5階まで見学できるのは珍しいし嬉しい。
4階は校長先生か誰かの執務室として使われていた時期があるときいたけれど、ここで仕事をするとなると、ちょっとギシギシしていて地震とか来たらちょっと不安。


建物の見学もゆっくりできたし、展示が充実していて当時の様子も知れて満足いく見学となりました。「これが無料か」と思いましたね。
天気も良かったので良い散歩になりました。