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いにしえの建築をめぐる旅

【名古屋市覚王山レトロ建築散歩➀】日泰寺と揚輝荘

名古屋市千種区覚王山エリアは現在、名古屋市の「住みたい町ランキング」でも1位になるような人気住宅エリアであり、名古屋市を代表する高級住宅街でもあります。

ただ昔からそうだったというわけではなく、このエリアが覚王山と呼ばれ始めたのは、(名古屋の歴史からみると)割と最近です。

というのも、明治34年に「覚王山日泰寺」(上記写真)が建立されたことがその始まりであり、そこからこのお寺を中心にここら辺の市街地が形成されていったからです。

この日泰寺釈迦の遺骨を納めており(!)日本で唯一の超宗派のお寺です。
超宗派というのは言葉のとおり、「どの宗派にも属さないすべての仏教徒のためのお寺」のことです。

世界では宗派同士でケンカをしている宗教も多い中、「どの宗派にも属さない全ての仏教徒の為のお寺」が名古屋にある...。

僕はそんなお寺が名古屋にあることを知りませんでした。
そもそも釈迦の遺骨というものがあることに驚いたし、見つかったのが1898年というのも驚きで、でもって遺骨がタイ王国から日本に分与されたのも驚きです。

当時、つまり1900年前後、その釈迦の遺骨をどこに安置するかということで日本国内でかなり議論が交わされたらしいです(そりゃそうなるわな)。
そして紆余曲折を経て名古屋に決まったという。

当時ここら辺は名古屋市ではなく田代村といったらしいけど、とにかく名古屋に安置されることが決まった。
日本のど真ん中だからということではないらしく(当たり前だ)、「名古屋の官民一致の誘致運動が功を奏した」かららしい。名古屋市民が協力して敷地10万坪も用意したとか。

そんな仏教徒の聖地のようなお寺が名古屋市の熱意によって建立されたわけだが、その割にあまり知名度がない気がする。僕の周囲の人も知らなかったし。
うまく言えないけど、そういうところもなんだか名古屋らしいというか...。

その日泰寺(ちなみに日は日本、泰はタイを意味してます)のすぐ隣に接しているのが今回訪問した揚輝荘です。

東海地区の老舗百貨店であり、名古屋市に本店を置く「松坂屋」。

その初代社長である伊藤次郎左衛門祐民(いとうじろざえもんすけたみ)が大正から昭和初期にかけて建築したのがここ揚輝荘です。

伊藤次郎左衛門祐民(1878~1940)氏とは

ということで明治から昭和初期にかけて名古屋の近代化に貢献した実業家の一人です。


ちなみに伊藤家のルーツは、織田信長の小姓「伊藤蘭丸祐道」にあります。

本能寺の変で主を失い、浪人していた祐道が名古屋に呉服店を開いたことがその始まりです。

蘭丸ってあの本能寺の変で信長と命をともにした蘭丸を思い浮かべたけど、それとは別なようで蘭丸は3人いたようです。これも初めて知りました。

江戸時代になると尾張藩の御用商人となり藩財政に深く関わるようになります。

この揚輝荘には尾張徳川家から移築された建築物がいくつかあったようですが、そういう繋がりが尾張徳川家とあったようです。

建設当時の敷地面積はなんと約1万坪で、京都の修学院離宮の影響を受けたと考えられる池泉回遊式庭園があり、その広大な敷地内には約30棟の建物がありました。

しかし残念ながら現在の敷地は建設当初より縮小されてます。
敷地は北庭園と南庭園に分かれ、建物は4,5棟残るのみです。

というのも戦時中には空襲によって約20発ほど庭内が爆撃されたのことです。

また戦後の開発やらで北庭園と南庭園を分断するかのようにマンションが建っています。よって南庭園から北庭園に直接行こうとするとマンションの敷地を通り抜けなければなりません。この点はちょっと残念でした。

ただかろうじて、揚輝荘の中のメインの洋館2棟が奇跡的に残ってます。

昭和12年築のハーフティンバー様式の洋館である「聴松閣」
昭和14年築の「伴華楼」です。

外壁の色が印象的な上記写真の建物は揚輝荘の迎賓館として使用された聴松閣になります。

ここら一帯はなだらかな丘陵地帯で江戸時代は月見の名所だったとのことです。
現在も月見ヶ丘という地名が残っているほどです。
当時の名古屋市中心部からするとだいぶ郊外に位置していることもあって、まさに別荘という感じ。
外観も山荘風で邸内もコテージっぽい雰囲気がありました。

まず旧食堂。ここは現在休憩室となっていてお茶(有料)も頂けます。


こだわりの(遊び心あふれる、というべきか)細部や意匠を見ることができる。

 
暖炉には祐民氏が興福寺や東寺で入手した古い瓦がはめられている。

 
また飾り窓には松坂屋前身である伊藤呉服店の「いとう」のロゴ。

階段手摺や旧食堂の床は手斧(ちょうな)による名栗加工。

 

祐民氏は自ら定めた55歳定年によって公職を退き、引退後1934年にインドや東南アジアの仏跡巡拝の旅に出かけました。

この聴松閣はその旅の影響がとても強く残っています。

例えば2階の「旧応接室」。海をイメージした暖炉のタイルと船の窓。
今と違って何日にもわたる船旅だったので、やはり船から眺める海原や船内が思い出深かったのかもしれない。当時は気軽に写真を撮って記録することもできなかったわけだし。

 
同じく2階「旧寝室」。こちらは中国風のお部屋。

 
和室もあり。正直なんだかんだいって和室が一番落ち着くような。
自分が招待された客だったら和室に泊まりたい、とふと思った。

 

聴松閣において最もインド(仏教)色あふれるのが地下1階。
1934年の旅行からの帰国後、余程感銘を受けたようでインドからの留学生ハリハランにアジャンタ石窟院の壁画を模写させています。

 
地下の旧舞踏室。

また、旧舞踏室の片隅に瞑想する場所のような小さなスペースがありモザイクタイルと女神像が置いてあります。
ここは地下だけれど、小窓もあるしドライエリアによって採光も採っているので昼間は真っ暗ではない。よって朝になると光がうっすら差し込んだと思う。
カンボジアやインドの寺院を廻って、その宗教的な静寂な空間を少しでも再現したかったのかも。

  

カンボジアのアンコールトムの彫刻を模した女神像


ヒマラヤ連峰の雪嶺を描いたエッチングガラス。
 

地下でもう一つ目に留まるのがミステリアスな地下トンネル。
マンション開発で大部分はなくなってしまったようだけれど揚輝荘中央あたりにあった「有芳軒」につながっていたそうで全長170mあった。

ちなみに目的は不明だとか。
隠家とか防空壕説とかいろいろあるみたい。
ここは迎賓館だったから暴漢に襲撃された際の抜け道だったのかも。

ちなみに汪兆銘を匿うためのものという説もあるようです。
2005年の中日新聞には「汪兆銘 幻の隠れ家」という記事も出ているし。
いずれにせよ、いろいろ想像が膨らみますね。

どうでもいいけれど、大長編ドラえもんの「ブリキの大迷宮」にこんなの出てきたな、と思ったのは僕だけかな。

聴松閣に隣接している建物は揚輝荘座敷。
大正8年、矢場町にあった屋敷を移築したもの。
案内によると川上貞奴も仮住まいしていたとのこと。
現在は非公開になっています。


揚輝荘北庭園には昭和4年築の「伴華楼」が建っています。
尾張徳川家ゆかりの座敷を移築してきて、そこに当時名古屋工業大学教授だった鈴木禎次が洋室を増築して設計した建物。
しかし失われたものもあるけれど尾張徳川家から移築された建物がいくつかあったんだな。


市松模様の煙突とサワラ板のウロコ壁が印象的。
ここからみると洋館だけれど、2階は和室になっているので和洋折衷型の建築になっている。
今回は中の見学はできなかったので外から眺めるだけ。よってどこ箇所が尾張徳川家の座敷で、どこが増築した箇所なのかはっきりとよくわからなかった。
それくらいうまくドッキングされているということか。
何かの機会にまた来たい。

新緑の綺麗な季節もいいけれど、紅葉のシーズンも素敵です。

一日2回、ガイド付きで見学できる。
より詳しく建物について知ることができるのでお勧めです。