愛知県の西部に位置する人口約6万人ほどの津島市。
その津島市にある堀田家住宅へ行ってきました。
堀田家住宅は、津島神社の鳥居すぐ東側、津島街道沿いにあり、この建物は江戸中期、正徳年間(1711~1716)に建てられたと伝えられてます。
何度か増改築を経た後、1973年に道路の拡幅工事のため約60m西の現在の場所へ曳家され、同年、国の重要文化財に指定され現在に至っています。
この住宅は主屋と3棟の土蔵から成っており、主屋は桁行7間半、梁間7間、切妻造重層浅瓦葺です。桁行7間半、梁間7間というと、約14m×約13mというところでしょうか。
受付を済ませて外から眺めた時は、それほど大きく見えなかったんだけど、いざ入ってみるととても広い、見応えのある建物でした。
もともとの所有者であった、堀田理右衛門家は初代を之理(ゆきまさ)といい、あの福島正則に仕えた中小姓だったが、福島正則が芸州へ領地替えになったとき津島へ戻ってきたとのこと。
福島正則が清州24万石の大名になったのが1595年で、関が原の戦い後、芸州へうつっているから、之理が津島に戻ってきたのは1600年~くらいでしょうか。
この津島あたりは尾張と伊勢を結ぶ要衝として発展したようだけど、海部郡出身の福島正則の他にも、清州城を拠点としていた信長や名古屋中村出身の秀吉も、この近くにいた。若いころはよくここら辺に来てたのかな。
堀田家のその後の生業は不明だが、5代目之仲になると雑貨商、質業、酒造業等を始めて、徐々に軌道にのり、新田開発にも乗り出して財をなした。その後、代を経ていき堀田家は名字帯刀を許され屋敷地年貢除地の特権も得ていく。
なるほど、この立派な建物も納得。
入口は大戸口(前玄関)で中に入ると、左手にこみせ(待合の間)右手にみせ、その奥にみせ座敷(客間座敷)、入口奥には土間が広がっている。
土間は天井が無く、梁組と鴨居を見せた吹抜けになっており、空間が広い。屋根に小さな窓があって、うっすら光が荒神かまどに差し込み、なんだか神秘的に見えました。
「荒神」とはかまどの神様のことで荒神かまどはしょっちゅう使用せず、正月のみ使用していたかまどらしい。
内玄関には駕籠が展示してある。ここにこうやって置いてあるということは堀田家のものなのかもしれない。このようなものを使うとしたら江戸時代だろうけど、えらく狭い。江戸時代の日本人女性の平均身長は143~146㎝ときいたことがあるけど、それにしても狭そう。話違うけど、皇女和宮さんは京都からこういうのに乗って江戸まで行かれたのだろうか。エコノミークラス症候群になりそう。身分的にはエコノミークラスではないけど。
この主屋で最も古い部分が、内玄関からの居室箇所で明和2年(1765)、寝室が明和7年(1770)の建造だそう。堀田家には12点の棟札が残されているため、家屋のどこの部分がいつ完成し、またいつ修繕したのかわかるという。
居間、寝室部は展示コーナーになっていたが、そのためか陽の光が入らず暗かった。
朝ごはんとかここで食べるにはちょっと暗い。
いつごろのものかわからない、おそらくかなり古い箪笥あり。そういう家具も見どころ。
居宅部とみせ座敷のさらに奥に、10畳の仏間、各6畳の茶座敷、中の間があり12畳の書院へとつながる。書院には茶室がくっついている。
みせ座敷の片隅に設置してある階段。こういう位置に階段を設置するのも、現代ではないのでなんだか楽しい。
2階はどのように使用されていたのだろう。
土間の奥には台所があり、女中部屋も設置されていた。さらにその奥には「不寝番部屋」と「下男部屋」がある。広い。見応え十分。そして静か。
静か、といえば僕は2回ほど、堀田家住宅に訪問しているけど他に観光客がいなかったため、思う存分見学でき、とても贅沢な時間をすごせた。とても静かな時間が流れていた。
横にある津島神社は全国3000以上ある津島神社の総本社であり、由緒ある神社で常に参拝者が訪れているようだけど、堀田家住宅を見学しないのはもったいない、と思いました。