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いにしえの建築をめぐる旅

【旧藩主の邸宅③】上杉神社と上杉博物館そして上杉伯爵邸

「旧藩主の邸宅シリーズ③」は米沢藩主13代目であり、そして最後の米沢藩主である上杉茂憲伯爵が建てた「上杉伯爵邸」です。

米沢、といえば米沢牛と前回書きましたがもちろん上杉謙信公の上杉家でも有名です。

米沢駅前には「ようこそ上杉の城下町 米沢へ」の看板あり

上杉謙信公は「越後の虎」「越後の龍」と言われたことからもわかるように現在の新潟県あたりを勢力範囲にしていました。

謙信公亡きあとは上杉景勝公が豊臣家五大老の一人として会津藩120万石の大名になります。

しかし上杉景勝公の代でおきた関ケ原の戦いで西側についたことにより会津120万石から米沢30万石に減封され以降、米沢藩主として幕末をむかえます。

その最後の米沢藩主、上杉茂憲伯爵の旧邸は米沢城址・松が岬公園の南側にあります。

上杉伯爵邸に行く前に、近くの上杉神社と上杉博物館にも行ってみました。

上杉神社上杉謙信を祀っている神社で、米沢城址に位置しています。

僕が行ったときは雨が降っていたのと、平日の夕方だったのでほとんど人がおらず。

静かにお参りしてきました。

江戸中期、困窮した藩政を立て直した9代藩主、上杉鷹山公の有名な言葉の碑もありました。

上杉鷹山「為せば成る...」の碑

境内には上杉景勝公と直江兼続公の像もたっていました。

そこで直江兼続公の有名な兜の前立である「愛」が目に入った。

上杉景勝公と直江兼続

「愛」の前立

戦国時代に「愛」=LOVEという観念はなかったよな、と思う。

むかしラッキーマンという漫画があったけれど、それに登場する「友情マン」というキャラをふと思い浮かべてしまった。あれはハートマークだったけど...。

愛する、という言葉は明治時代以降に海外の文学を翻訳する際に広まったと聞いたことがあるので現代で使われている「愛」ではなさそう。

LOVEの意味ではないようで、軍神である「愛染明王」または「愛宕権現」にちなんだもの、という解釈が現在は主流のようです。

同じく境内にある直江兼続像。こんな大きい前立をかぶって戦場を走っていたのだろうか。

上杉神社のすぐ近くにあるのが「伝国の杜 米沢市上杉博物館」。

たまたま催されていたのが「上杉景勝関ケ原の戦い」という特別展。

ちょうど大河ドラマ徳川家康をやってることだし、せっかくなので見学することに。

上杉家が米沢藩主になるきっかけでもある大事な戦いですし。

関ケ原の戦いというと今の岐阜県関ケ原で石田光成の西軍と徳川家康の東軍が戦ったイメージですが、そもそもの発端は徳川家康による上杉討伐でした。

この展示では

  • 上杉景勝会津に帰国したことに乗じて家康が「上杉謀反」の疑いをかけ上洛を命令する
  • 上杉景勝、上洛命令を拒否。いわゆる直江状を家康に送り対決姿勢を示す。
  • 家康の上杉征伐開始。
  • それと同時に西から石田三成が呼応して挙兵。家康は反転して関ケ原へ。
  • 徳川方についた最上義光と上杉方、直江兼続の「慶長出羽合戦」はじまる
  • 関ケ原の戦い終了。東北における上杉家の戦いもそれに伴って終了。

という流れが、上杉景勝最上義光徳川家康などの書状の展示によって把握できるようになっており、攻防の緊張感があって非常に面白かったです。

「愛」の直江兼続ですが石田三成とは友人だったそうで、東と西から江戸の徳川を挟撃しようという作戦があったとかなかったとか。

いずれにせよ、そういう噂が立つくらい二人の友情は厚かったのでしょう。

やはり直江兼続は友情マンだったわけだ。

しかし、展示を見ていて思ったことは改めて徳川家康はすごいなあということだった。

五大老の前田と上杉に謀反の疑いをかけて、前田は徳川へ恭順させ、上杉を挑発する。

関ケ原では石田三成毛利輝元宇喜多秀家らと福島正則加藤清正黒田長政らを戦わせ、東北では上杉勢と最上、伊達が戦う。

徳川軍団も戦闘には参加しているけど、ほぼ豊臣軍団同士を戦わせている。

そうなるように時間をかけて準備していたんだろうけれど、なかなかこううまくできないよなあ、と徳川家康の老獪な政治力に感銘。

無理やり相手に謀反の疑いをかけてケンカを仕掛ける等、こういう点は信長や秀吉に比べ家康の人気を下げる理由かもしれない。

しかし他国にむけてしょっちゅうミサイルを飛ばしたり、偵察気球を飛ばしといて迎撃すると逆ギレしたり、世界の陸地面積の8分の1に相当する広い国土を持っているにも関わらずまだ領土が欲しくて他国を侵略するような国に囲まれている今の日本を思うと家康さんみたいな人がとても頼もしく見えてくる。

ということで上杉家の戦国時代~豊臣時代~江戸時代をざっと学んでようやく上杉伯爵邸へ。

上杉記念館(伯爵邸)の門。こちらも登録有形文化財に指定されている。

上杉伯爵邸は、当初は明治29年、米沢城二の丸跡地に建てられたのですが米沢大火で焼失してしまいました。

その後、大正14年(1925年)に銅板葺き、総ヒノキの入母屋造で再建されました。

もうあと数年で築100年ということになりますね。

庭園から見た屋敷の様子

この建物を建てた上杉茂憲伯爵(1844~1919)とは

という方です。

東京や沖縄でお仕事をされて再び米沢に戻ってきて養蚕製糸織物の改良に尽力したそうです。

ちなみに前回記事に書いた「重要文化財 米沢高等工業学校」の設立にも上杉家は当時の金額で3000円の寄付をしています。他にも教育や沖縄にも私財を投じたようです。

この屋敷は茂憲公が亡くなられた後、米沢大火が発生し再建されているので、厳密には、いま建っている邸宅に茂憲公は住んだことはないということになります。

入口

現在、上杉伯爵邸は米沢の郷土料理を提供する日本料理のお店になってます。

HPで献立を見ると上杉伝統の献膳料理や米沢牛料理を見ることができます。

僕は朝いちで伺い、中を見学させていただきました。

玄関から中へ入ってすぐに中庭と大広間があります。

大広間

大広間の奥、通路を行くと居間(上の間と二の間)があり、二階にもそれぞれ客間が上の間、二の間とあるのですが、どの部屋もお庭に接しており庭園を眺めることができます。

それぞれ通路に接しているので、各部屋とお庭の緑のコントラストが印象に残りました。

 

二階客間

おもしろいな、と思ったのが上杉家の家紋「竹に雀」。

「竹と雀は生命力が強いことから、子孫繁栄を意味し縁起がいい」という意味。

「旧藩主の邸宅②」の池田家の家紋でも書いたけれど、センス良いよなと思う。

武勇で名を馳せる上杉家だけど向かい合うかわいい雀が描かれてる

上杉伯爵邸内のどこかでたまたまみかけたシート

竹を描いた欄間。これも家紋の竹からだろうか。

今回、食事はしませんでした。

というかこの日は団体予約が入っていたようで貸切でしたね。

「げ、見学できないかも...」と思ったのですが、スタッフの方に聞いてみたら見学させていただけました。

食事の準備で忙しいであろう中、本当にありがとうございましたm(__)m。

HPを見ると、もともと10時から17時まで見学のみも可能なようです。

が、事前の予約客次第では、貸切状態となり入れない可能性(というか不安)があるので行かれる際は一応事前に電話で確認するのが良いと思います。

食事はしなかったけれど、その代わりに上杉伯爵邸の正門わきにある和風カフェで「殿様からのごほうび」というパフェを食べました。

「殿様からのごほうび」。おいしかったです。