【米沢→福島県への旅】国指定重要文化財 旧高松宮翁島別邸(福島迎賓館)の見学
山形旅行の続きですが、この日は山形を出て福島へ行ってきました。
米沢市から車で約1時間20分、国指定重要文化財である「旧高松宮翁島別邸」(福島迎賓館)とすぐ隣の天鏡閣へ行くためです。
旧高松宮翁島別邸は、大正天皇第三皇子・高松宮宣仁親王殿下が喜久子妃殿下の母方祖母に当たる有栖川宮威仁親王妃慰子殿下のご保養のために、大正11年に建設されたものである。(案内パンフレットより引用)
なんだか漢字がいっぱいですが。
松宮宣仁親王殿下(たかまつのみやしんのうでんか)が有栖川宮威仁親王妃慰子殿下(ありすがわのみやたけひとしんのうひやすこでんか)の保養のため建てた天鏡閣の別邸になります。
いつも見学できるわけではなく、年に何度か期間を定めて特別公開しています。
僕も今回の山形旅行にあわせて応募しました。
今回は予約制で1日14名まで。
一般(大人)1200円(迎賓館見学、天鏡閣見学、天鏡閣でのティータイム含)
6月の梅雨時期だったので天気は諦めていたのですがこの日はまさかのいい天気(予報は曇り)。
この風景からさらに猪苗代湖方面に走ります。
しばらく走ると、猪苗代湖長浜駐車場の目の前の看板に「天鏡閣」の看板があるので坂道を登っていきます。
そこからは山道のようになっていき、風景も少し変わります。
旧高松宮翁島別邸には駐車場がないため、近くの天鏡閣駐車場に車を停め、そこから500mほど歩くことになります。
↑の写真の看板に<旧高松宮翁島別邸(福島迎賓館)「明治の小径 やすらぎの小径」>とありますが、向かいながら「ここであってるんだろうか」とちょっと心配になりました。
なぜなら、思った以上に山道だったから。
慰子殿下御一行は3か月間ここにご滞在されたとのことですが、当時、今ほど道路も整備されておらず交通も不便な中、よくここに建てたなあと思いました。
案の定、「熊注意」の看板が。
しばらくすると門が見えてきます。
良い感じに苔が生えた趣のある長屋門ですが、これはこの別邸と一緒に建てられたものではないため文化財としての登録はないとのこと。
当時、高松宮殿下が「益子焼」の陶芸家、濱田庄司氏の家に通っていた繋がりで、どこかの豪商からもらったそうで、列車と馬車で栃木の益子町から移築しました。
茅葺ですが、現在なかなか茅が集まらないそうです。
旧高松宮翁島別邸(福島迎賓館)は一見、それほど大きく見えないのですが木造平屋建て延床589.7㎡(178坪)、17部屋ある広い住宅です。
敷地面積は9,035.21㎡。
宅内の松の間からは猪苗代湖がちらりと見えますが、当時はもっと湖が広く見えたそうです。
現在は草木が生い茂っているため「オーシャンビューの別荘」というよりは、お庭の緑が瑞々しくガラス窓に反射しているのが美しい、自然あふれる別荘といった印象です。
正面玄関
位の高い人は縁台から入っていたそうで、正面玄関は外部のお客様用として使用されていました。
この建物は玄関棟、台所棟、居間棟からなっています。
まずは「客間」から見学スタート。
印象に残ったのは屋久杉が使用された板欄間。
欄間の模様が「源氏香」になってます。
と、知ったようなこと言いましたが恥ずかしながら「源氏香」ってピンと来ず。
調べてみると
源氏香とは組香のひとつ。5種類の香を5包ずつ作った25包を混ぜ合わせ、5包を取り出し焚いて薫ずる。5包の香りを聞いた客は5本の縦線を引き、同じ香りと思うものの線の上部を横線でつなぐ。
この線の組み合わせによって生じる52パターンの呼び名を『源氏物語』五十四帖から採用したものが源氏香図 「文化遺産オンライン」より引用
ということで一つ一つの模様が少しずつ違います。教養が試されますね。
客間と居間は通路でしっかり分けられています。
廊下と居宅スペースとの間に段差があり、そこから先が身分の高い人の部屋であることがわかります。
居間棟は「松の間」「竹の間」「梅の間」からなります。
竹の間と梅の間の間の通路には「竹の欄間」があります。
慰子妃殿下は加賀前田家14代当主である前田慶寧公の4女だったこともあり、ご実家にゆかりのある輪島塗がほどこされており、なんと100近い工程を経て仕上げられています。
松の間は格式の高いお部屋になっています。
上下2室より構成されており二つの部屋の間に筬欄間(おさらんま)を設けており上屋敷に床の間があり、下座敷が花灯窓のある書院になっています。
床の間の形式は「真・行・草」の本格的な書院造の「真」。
面取りされた四方柾の床柱は150年ほど年輪の積んだ檜が使用され、畳は白九条紋
、猫間障子など細かな部分まで丁寧に作られており見どころがありました。
廊下は畳部分と板張り部分に分かれていて、お客様が畳、使用人が板張り部分を歩いていましたそうです。
梅の間は上中下の三部屋からなっています。
中の間は妃殿下のご寝室でした。
竹の間は数奇屋風造で慰子殿下の私室になってます。
床の間は赤松の一枚板、床柱は北山杉、地袋は神代杉が使用されています。
ここで印象に残る工夫がされてます。
きらびやかにならないように、竹にわざと傷をつけているとのこと。
「新築でピカピカというのは趣がない」という感性があらわれています。
一見、地味に見える建物に込められた、最高の木材、随所にみられる職人たちの匠の技、華美を良しとしない感性、差し込む光が明るすぎてもいけない、暗すぎてもいけない、外の自然と調和し、わび、さびを体現したような趣ある各部屋。
数百年にわたって連綿と受け継がれ、醸成されてきた所謂「日本的情緒」。
そういったものがこの建物から感じられました。
東京の赤坂迎賓館が完成した時、設計した片山東熊は出来栄えに自信を持っていたらしいが、肝心な明治天皇が一言「豪華すぎる」と軽くお叱りになられて結局住まいとして使用されず片山はショックを受け寝込んだという有名なエピソードがあります。
明治天皇の発言の背景はわからないけれど、福島迎賓館のすみずみにほどこされた奥ゆかしい工夫、感性をみると、これ見よがしでド派手な洋風建築は陛下の感性にあわなかったのかもしれない。
当時、ここまで来るのは大変だっただろうな、と思いましたが、ここに建てられたのは、朝敵とされた会津藩の復権、という意味もあったとか。
昭和27年に高松宮殿下より福島県に御下賜され福島迎賓館として今日に至っています。
最近の皇族の方のご来訪はないようだけれど「いついらっしゃってもいいように準備はできている」ということでした。