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いにしえの建築をめぐる旅

【愛知県南知多町】尾州廻船内海船船主 旧内田家住宅

江戸時代から明治時代にかけて、愛知県の知多半島尾州廻船(びしゅうかいせん)という尾張国の荷物運搬用の大型船の拠点として繁栄していた。

このうち、知多半島の内海地区やその周辺を拠点としたものを内海船とよばれ、19世紀半ばの全盛期には250艘もの船をかかえていた。

幸い、今日はとてもいい天気で帰りに海岸線を車で走ったのだけれど、かつてこの海岸を何十、何百艘もの大型船が出航したり寄港したりしていたのだなと思うと、なんだかロマンを感じますね。

太陽の光がキラキラ反射するまぶしい青い海を眺めながらそんなことを考えていました。

本日訪問したこの旧内田家住宅はその内海船の有力船主だった内田家の明治2年に建てられた建物です。

つまり江戸から瀬戸内海にかけて活躍した大型船の船主のおうち、ということになりそうです。

古い建築は何件もみてまわったけど、船主のおうちというのは初めてかもしれない。

旧内田家住宅は常滑街道から細い道に入った昔ながらのおうちが残っている区画の中にありました。

車で来る人のために専用駐車場もあります。

この写真だけみると、とても「海」を感じないけれど400mほど歩くと内海海岸海水浴場であります。

建物は前山という山のふもとにあって、海からの風なのか、森や木々がサワサワと音をたてていて、心地よい静寂さを感じることができる。

1人300円で受付を済ませて建物に入ると「にわ」と呼ばれる土間があらわれる。

今までも愛知県でいえば旧堀田家住宅や旧糟谷邸など見学したが、土間を「にわ」と呼ぶのは初めて。

最初はこの地方の呼び名かと思ったが、調べるとそうでもなく、普通に土間を「にわ」と呼んでるらしい。どういう時に「土間」でどういうときに「にわ」と呼んでいるのかは不明。

この「にわ」は「おかって」「なかのま」「だいどこ」という三つの間に面していて、太い梁を組んだ小屋組が豪快。

この「にわ」は今でいう台所を兼ねているので、炊事場もあるし、井戸もある。

土間は基本あまり外からの明かりが差し込まず、かなり高い位置に明かり取りの窓があるのみ。

よって今日のような快晴の日でも、うっすら光が入るだけなので、どこかひんやりとした厳かな雰囲気がある。

でも日中ですらこんな暗いので、実際、いろいろ大変だっただろうな。もちろんこれは現代からみたら、だけど。

それに湿気とか。

そのために天井(というか小屋組)が高いんだろうな。

土間からの上がり口である「だいどこ」。

「だいどこ」も初めて聞いたけど、これも調べると日本家屋の名称としてちゃんとあった。「居り間」ともいい、家族の居間でもあり、「おでい」と呼ばれる主人の間や接客の間の前室としての役割があるのだとか。

↓手前が「だいどこ」、奥が「おでい」。

「おでい」の北側には仏間と神屋がある。

写真は撮らなかったけど、この神屋の存在こそ航海安全を祈願した船乗りの家ならではのものでしょう。

また仏間・神屋の北側には家族の寝所である「なんど」がある。

当時のものと思われる年季の入った箪笥と箱階段あり。

ちなみにここからの2階は見学不可になっている。

 

そして奥の座敷へつながる通路。

廊下を進んだ先にあるのが座敷の「上の間」「次の間」。

この屋敷で最も格調の高い建物で、内海船の船主の組合「戎講」の寄り合いが行われたり冠婚葬祭など特別な場合に使用された部屋。

座敷から眺めることができる南庭は前山に接している。
心地よい風に枝が揺られて、前山の木々のサワサワという音が座敷にいると聞こえてくる。
案の定、僕が行ったときは誰もおらず、貸切状態でそんな贅沢な時間を堪能することができた。

明治半ばでもって廻船業を撤退し、その後4代目佐七は内海町長をつとめ、一方、銀行の創設に加わったり内海自動車合資会社を設立し観光業に力をいれたりと、地域に貢献されたとのこと。

廻船の船乗りの住居は珍しいらしく、この旧内田邸は貴重な建物として重要文化財に登録されている。

※公開日が決まっているのでHPで確認してから行くことをお勧めします。